報告【哲学対話をやってみよう!】:第3回ごめんねギャバン@札幌
1.はじめに
2020年2月7日(金)に開かれた第3回ごめんねギャバン@札幌、内容は【哲学対話をやってみよう!】でした。9名の方が参加してくれました。
ツイッターやブログを見て、初めての方が何人か足を運んでくれました。女性もおひとり参加してくれました。ありがたいことです。
呼びかけ人の僕(まくねがお)は、初めての大人数で、緊張気味…。
当日は、最初に20分ぐらい、僕の方から哲学対話の説明を行ないました。二枚のプリントをお配りし、それを読む形で説明しました。
その後、参加者おひとりおひとりに、「本日呼ばれたい名前と、今の気分と、ここに来た経緯・きっかけ」を話してもらいました。
「ツイッターを見てここに来た」、「ジェンダーのことに関心を持っている」、「知人から紹介されて来てみた」…。色んな動機やきっかけで、皆さんはここに集まってくれたようです。
哲学対話のことは、ほぼ全員が「知らない」とのこと。
どんなことが始まるのか、今日の話し合いはどんな結果になるのか…、初対面の方々も多く、何となく不安で、少しドキドキする感じは、みんな抱いているようでした。
ただ、みんなが一言ずつ語り合ったことで、場の空気が少しゆるやかになった感じもしました。…というか、僕の緊張は少し解けました笑
2.下準備:問いを集め、絞る
そして、哲学対話の下準備がスタート。
本日のスタートの問いは、
「苦労していること、もしくは気になっていること」。
まずは皆さんに、上記の問いで自分の感じることを、フセンに書き出してもらいます。
そして、書き出した自分の問いをひとつだけ選び、皆の前で語ってもらいました。
場には、こんな問いが並びました。
- 意見が違うときに、反論ができないのはなぜか?
- 「嫁」だとくくられることがイヤだ! それはなぜか? また、それでイヤなのに、イヤだと言えない時がある。それはなぜか?
- 夜に同居人が家事をしてくれないことにイラつくのはなぜか?
- 同僚とのコミュニケーションで、精神的にフェードアウトするときがある。それはなぜか?
- なぜ自分は、スッと踊れないのか?
- なぜインターネットは対立が日常化してきたのか?
- 仕事の行く末をどうするか?
- 仕事をやり過ぎちゃうのがツライ。やり過ぎちゃうのはなぜか? また、期待に応えようとしてやり過ぎちゃうことがあるのだが、なぜ期待に応えようとしてしまうのか?
…素晴らしい問いの数々! 一個一個取り上げて、あれこれ語り合いたいところですが、時間も限られています。上記の問いを深める質問を、みんなで出し合った上で、多数決でひとつの問いに絞ります。
多数決では票が割れ、1・3・5が二票同数で並び、決選投票。結果、1の問いが選ばれました。
あらためて、問いと、問いを出してくれた参加者の方のフレーズを、模造紙に書き出します。
問い「意見が違うときに、反論ができないのはなぜか?」
フレーズ「プライベートでも仕事でも、「こっちをやらなきゃダメでしょ」と言われて、違う方を大事にしたいと思っているのに、うまく言えないときがある。言えないでいるうちに、相手の話しは終わってしまっていて、自分の思っていることを伝えられない。そのことで、納得できていない自分がいて、自分を納得させたいと思う自分がいる」
3.下準備:問いを深め、絞る
哲学対話の下準備は、まだ終わりません。ここから、ひとつに絞った問いを、深める作業に移ります。
まず、問いを深める質問を、みんなで集めます。皆さんから出た問いは、以下のようなものでした。
- 飲み会で「唐揚げにレモンをかけるよ」と言われたときのような例で、軽い例や一般化した例で考えてみると、どうなるか?
- 反論が「言えない」とあるが、それは、「言えない」のか? 「言わない?」のか? それとも「言いたくない」のか? そもそも、「言えない」というモヤモヤとは何か?
- 納得できずにモヤモヤしているときの頻度はどのくらいある? 毎日か? それとも、たまに?
- もし自分の意見を伝えられたら、それは反論になるのか? それでモヤモヤが解消されるのか?
- 「意見が違う」とは、どのくらい意見が異なっていると、それは「違う」ということになるのか?
- 「こっちをやらなきゃダメでしょ」と強制されているとき、モヤモヤした気持ちになるとして、もしも「こっちかあっちか、選択して良いよ」と選択権を与えられたとしたら、どんな気持ちになるか?
- 反論しないメリットってあるのか?
- 「相手を反論・説得できたらなあ」と感じる気持ちは、どんな気持ちなのか? それはカタルシスなのか? カタルシスだとしたら、どんなカタルシスなのか?
- 対人の例ではないときは、どんな気持ちになるか。例えば「本を読んで違う意見にふれたとき」や、「ニュースを見ていて違う意見にふれたとき」だと、対人のときとは、気持ちにどんな違いがあるか?
- このモヤモヤを、どう乗り切るか?
- そもそも、どうして自分の意見が言えないのか? 意見が言えない、まさにそのときに湧き上がっている自分の感情は、どのようなものか?
…これまた、素晴らしい角度での質問ばかりです。
そして、上記の深掘り質問をカテゴリー分けする作業へ…。
…と、ここですでに時間は20時45分、開始して1時間半以上が経過していました。いったんここでブレイクタイムを入れます。
…休憩が終わり、20時55分に再開。
さっそく、カテゴリー分けの作業へ。カテゴリーに分けるのがとっても難しかったのですが、何とか皆さんで考えて、とりあえず以下の四つにカテゴリー分けをしました。
- A 「【意見】とは何か」カテゴリー(5)
- B 「【反論】とは何か」カテゴリー(4・7・8)
- C 「【モヤモヤ】とは何か(そもそも、こうしたことに直面した時の気持ちとは、どんなものなのか)」カテゴリー(2・3・4・9・10・11)
- D 「【もしも…】で考える」カテゴリー(1・4・6・9)
そして、多数決で対話するカテゴリーを決めることに。
これまた票が割れる大接戦でしたが、BとCで同票となり決戦投票、最終的にはC「【モヤモヤ】とは何か(そもそも、こうしたことに直面した時の気持ちとは、どんなものなのか)」カテゴリー(2・3・4・9・10・11)で対話を行うことに決定しました。
4.哲学対話へ
ここから哲学対話の本編がスタート。確か時刻は午後9時をちょっと過ぎたぐらいでした。
メモを取っていないので、この記録を書いている僕(まく)もどんなことが語り合われたのか、正直うろ覚えなのですが、以下のような語りが出てきた記憶があります。
- 障害を持っている人や、認知症にある人に対しては、意見が違っていても「仕方ないか」と思えて、モヤモヤがそれほど持続しないことがある。
- 一方で、相手のことを、自分と同じような認知を持っている人だと感じているときだと、意見を言えずに生じたモヤモヤが、尾を引いて長く残ってしまう気がする。
- また、相手が自分の立場上、逆らえないような立場の人の場合だと、これもモヤモヤが尾を引いてしまうように思う。
- 相手に「期待」をもってしまうと、モヤモヤが強くなる気がする。わかってもらえるのではないか、わかってほしい、という「期待」があると、モヤモヤも消えずに残りがちになる。
… 一通り語り合った後、問いとフレーズを提供してくれた参加者の方に、置かれている状況のことをもう少し具体的に語ってもらいました。
参加者の方の語りは、リアルな場面とその葛藤の経緯を想起させてくれ、語ってもらえて本当にありがたかったなあ、と思いました。
5.ジェンダーについて考え、振り返り
21時40分頃、ここまでの語りや自身の思考を振り返り、ジェンダーのことで思うことがあれば、皆さんから言葉をもらうことにし、みんなで一言ずつ語って、終了となりました。
正直に書くと、僕自身も疲労して、この時点でスタミナが切れていた状況でした。
ジェンダーについて考える最後の語り合いについては、参加者の方からいくつか考察を上げてもらったのですが、細かいところを覚えておらず…(スミマセン)。
- 「パートナー間での性差とそれに伴う「期待」の違いについて、あれこれ考えた」
…と述べてくれた方がいた記憶はあります。
僕自身は、自分が意見を言えないことのモヤモヤについては、男性性が絡んでいるような気がしました。が、他の皆さんの語りやそのケースを聴いているときは、「男だから〇〇だ」とは言い切れないな、と感じました。安易に男らしさや女らしさで話しを回収してはいけない気がする、という気持ちになったのを覚えています。
この最後の振り返りや、会が終わった後に一声かけてもらい、全体感想として以下のような言葉をもらったことも覚えています。
- 今日行った哲学対話のようには、日頃あれこれと考える機会はなかったので、新鮮だった。
- 普段の職場や家庭などでは、今日のように「そもそも…?」と考える場面がないので、このように考えられる場面は大事だと思った。
- 哲学対話をしていても、自分の思いを言葉としてはなかなか出すことができず、難しさを感じた。感情をなかなか出せない感じがした。
- ぜひ、また来てみたい。次の機会があれば、教えてほしい。
また、メールでこの日の感想を送ってくれた方もいました(本当にありがたいです)。抜粋してご紹介します。
- 思考を楽しむ、思考を追求する、ということ自体はとても関心があるので、またやってみたいと思いました。
- ただ、先日の会では対話に行き着くまでの時間がかかり、いざ対話という段階になって電池切れになってしまいました。
- まくさんも言っていたように、次にやるとしたら、最初から問いを絞り、対話の時間がもう少し長くとってもいいと思いました。
- また、問いのテーマをある程度、メンズリブとかかわりのあるものにした方が話しやすいように思いました。
- 参加者は「メンズリブ」に関心があって集まっていると思います。漠然としたテーマよりも、男性や性をテーマにした方が、参加者自身の考え、思いを率直に話せるように思いました。
- 自分とは異なる生き方、考え方を知ることが、こうした会の面白さなのかなとおもいます。人によって「性」のとらえはさまざまで、正解がないと知るだけでも、気持ちがちょっと楽になります。
- 個人的には、「哲学対話」のような実験的な試みも楽しいですが、いつも付き合う人たちとはあらたまって話せないことを話してみたい、という欲望をかなえる場でもあってほしいと思います。大人の男性がそういうことを吐露できる場は、いまの社会には少ないように思うので。
6.おわりに
…ということで、今回集まりを呼びかけた立場としての僕の反省は、テーマが漠然として広すぎたことや、「哲学対話+メンズリブ」という試みは詰め込み過ぎだったなあ、と思っています。
コーディネートする僕の側の経験も足りなかったなあ。哲学対話、とっても面白い手法だと思うのですが、僕もまずは一参加者として、もっともっと経験してみたいと思いました。
今回哲学対話をするために、梶谷真司さんの『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』を事前に読んでみたのですが。「哲学対話をすることで自由になれる」「解放される」というふうに書かれていて。ジェンダーのことを絡めた哲学対話を行うことで、男性性からの/としての解放感みたいなものをみんなで味わえたらな、なんて思っていたわけですが。まだまだ難しかったです。ただ、これは単純に僕の経験不足な気がするので、またいつか挑戦してみたいな、と思っています。
振り返ると、本当に無謀な挑戦だったと思いますが、参加者の方々のあたたかい姿勢のおかげで、とっても良い雰囲気の場になってくれました。
参加してくれた皆様、本当に本当に、ありがとうございました!