ごめんねギャバン

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読書感想【ぼくらの非モテ研究会から学ぼう!】:「痛みとダークサイドの狭間で 『非モテ』から始まる男性運動」より

ごめんねギャバン@札幌、呼びかけ人の、まくねがおです。

 

「読書感想」第三弾は、西井開さんが書いた文章です。

非モテ男性たちのメンズリブ・グループが見出した、現在の到達点。ぜひぜひ学んで、ここからあれこれ始めたいものです。

 

これで、僕の読書感想ツイートの貯金は尽きました…笑

読書感想、次回の更新は遠い未来の遥か彼方となるでしょう。皆さま、心身を大切にして、どうか元気にお過ごしください笑

 

以下、読書感想です。


0.はじめに

西井開(2019)「痛みとダークサイドの狭間で 「非モテ」から始まる男性運動」(『現代思想2019.2月号 -特集「男性学」の現在-』所収)を読んだ。

非モテ男性論として、シスヘテロ非モテメンズリブの議論として、論点が明晰に整理されており、新たな知見にも満ちた文章だ。以下、4点に分けて感じたことを言葉にしていきたい。

  

 

1.「モテない」ことの手前にある「物語」への注目

非モテ男性は、「モテない→(だから)→苦しい」という単線的な経路に思考がいきがちで、既存の非モテ男性論においても、こうした単線型を前提にしてしまうものが多い。本文では、この単線的な経路モデルに疑義を呈す。

「ぼくらの非モテ研究会」の実践から、「モテない」の手前にある様々な「物語」が浮かび上がってきた。具体的なエピソードは本文を参照してほしい。多様な「痛み」の経験、例えば暴力被害の経験や疎外され辛かった経験が、実は「モテない」の手前に存在していた。人それぞれ、複雑な「物語」があった。

 

それぞれの「痛み」の経験が、それを補わせるように「女性への執着」へと向かう(ここに、男性を取り巻く社会構造、つまり男性ジェンダーの影響がある)。

強すぎる女性への執着心は、失敗や挫折の経験を生むこととなり、更に「オレはダメだ…」という苦しみを感じることへとつながっていく。

こうして「苦しい」と認識する意識は生じるが、同時に、自分が「モテない」から「苦しい」のだ、と単線的に思ってしまう。

非モテ男性の意識の傾向として、苦しみの原因を「非モテ」一本へと収束させてしまうが、しかし実際は、「苦しみを抱えるに至るまで、分厚い物語が存在している」(p.158)…。

 

…以上が本文の主張。とても重要な知見だと思った。男性一人ひとりに、分厚い物語はある。しかし、それを見出すことが難しい。振り返り、言葉にして物語化する機会がない。自分の物語なんて下らないものだ、と自分で自分をバカにしたり、他人に語ることでもない、と感じ、結果的に言語化されない…。

「ぼくらの非モテ研究会」という、西井さんらが実践しているメンズリブ・グループでは、語り合い/聴き合うことによって、それぞれの繊細で固有の、その分厚く複雑な物語に、自然と気づいていく。

 

そのことの、大きな価値!!

 

「ぼくらの非モテ研究会」がどのような実践をしているか、そこでの語り合い/聴き合いの質とはどのようなものかについては、ぜひ本文に当たって確認してみると良い。また、このブログ記事の続きで、その質についてもう少し言及したい。

 

 

2.ダークサイドへの注目とその取り扱い

非モテ男性同士の語り合い/聴き合う場では、「痛み」のみではなく、「ダークサイド」についても取り扱われる。

ダークサイドとは、ストーカーなどの加害的な経験の側面だ。具体的な例としては本文を参照してほしい。

「痛み」の経験と同等、ないしはそれ以上に、「ダークサイド」の経験は語り辛い。しかし、「痛み」を埋め合わせるようにして「ダークサイド」の経験は生ずるのであり、それを言語化して振り返る営為は、恐らく必須であり、非常に重要であるのだろう。

「倫理的に逸脱した行為を行った者を見つけ出して徹底的に叩くという近年の風潮」(p.158)が、「ダークサイド」の語りの表出を、よりなし得なくさせている、と指摘している箇所が本文にはある。全くもって、その通りだろう。クローズドの空間と、そこでの工夫した場づくりが、おそらく必要なのだ。

 

さらに、ここでの論点は、次の一節だ。

「ダークサイドの語りを許容する場は、加害を肯定したり、他者への恨みを吐いたりするだけの露悪的な空間になりうる危険性を孕んでいる」(p.159) 

 本文では、他者に思いを寄せた上での語り合いの工夫の一例も述べられてもいるが、その他にないか。

現代思想2017年5月号 特集‐障害者‐』で、杉田さんと熊谷さんとの対話があり、介助者の当事者研究に関する議論で、「本音と本心を分けて考えること」「自分の気持ちを聞くこと」といった知見が述べられている。これらも参照しながら、「ダークサイド」の取り扱い方は、さらに深掘りしたいところだ。

  

 

3.「うねうね語り」というミクロな技法への注目

「ぼくらの非モテ研究会」の語り合い/聴き合いの、その質について。

「痛み」、もしくは「ダークサイド」の経験を語り、物語として紡いでいくことは、容易ではない。先に見たような、露悪性とその陰性感情が、拡声器のハウリングのように増幅していくリスクの他、被害的に、ないしは加害的に語り過ぎてしまうことや、 そうした過去を振り返ることによる語り手自身のダメージにも、きっと留意が必要だ。「痛み」と「ダークサイド」、その狭間に漂うような姿勢と、言葉の置き方/拾い方の技法が要る。その技法のひとつの例として、この文章では、「うねうね語り」「要領の得ない語り」が挙げられている。

それは、論理的に明確に語ること、既存の言葉をテクニカルに用いて分かりやすく語ることの、対局にある。

あちこち話しが飛ぶ、行きつ戻りつする、うねうね蛇行する、何を言っているか分からなくなる…。それは、「これまで語ったことのないことを語るのだから当然」だ(p.160)。

こうしたミクロな語りの技法へのフォーカスが、重要であると思う。すなわち、この語りとはどういうものであるのか、こうした語りが生起する条件とは何かを、より深掘りしたいところだ。

4へまたぐことを言えば、ぼくたち自身に、こうした語りを喚起させるような条件とは何かを、今後考えたいと思った。

 

「うねうね語り」については、國部さんの『中動態の世界』の議論から、さらに考えたいと思う。

同書の冒頭で、熊谷さんと上岡さんが登場し、障害や依存症の当事者研究の議論からインスピレーションを受けて國部さんは同書を書いた、と明言されている。だから、当事者研究を参考にした実践である「非モテ研」の議論と中動態の議論とが関連していくのは、当たり前と言えば当たり前なんだけど、ここであえて議論を重ねてみたい。

『中動態の世界』によると、能動態/受動態の世界観は、時代を経て後から登場したものだ。

そこでは理性を用いることが良しとされ、意志による決断をし、受動的な条件を切断するかのように、言葉を放つことになる。この世界観では、能動的でないなら受動的である他なく、主体性の有無の二元論へと閉じていく。

現在はあまりにも能動態/受動態の世界観が支配的で、そのパラダイムで考える限り、他に選択肢はないように感じる。

しかし、別の視座がある。理性中心主義的な文法が登場して世界を席巻し、能動態/受動態の文法が世界を支配していく以前には、中動態/能動態という文法と、そんな世界観がおそらくあった。

そこでは、自らを取り巻いてきた環境や、過去からの経緯を、切断して消去することをしないで済む、そんな態度があり得る。

自らのプロセスの内側で言葉を置くか(中動態≒内態)、そのプロセスの外側へと言葉を放つか(能動態≒外態)。

そんな文法と世界観が、かつてはあった。だからそれは、今でも実はあり得るはずだ。

 

…「うねうね語り」は、明らかに中動態≒内態的な姿勢であることが分かる。これは、過去にあって現在は「なかったこと」にされている態度を、探り当てるような営為だ。
理性的に処理した上での、結論めいた断定的な言葉の放ち方ではなく。結論は分からないまま、自らのプロセスに留まり、それを手放さないように、そっと言葉を置いていく…。

このような「うねうね語り」≒「中動態≒内態的な語り」を、べてるやダルクが見出した技法を、ぼくらも使うことはできるのか…。

  

 

4.シスヘテロ非モテメンズリブと社会変革の関係

本文の最後の章は「ぼくらの非モテ研究会の社会変革の可能性」とあり、本文の最終センテンスで、そのことへの言及がある。メンズリブの実践が社会変革へとつながっていく理路とは何かが、大きな論点のひとつだろう。
「痛み」と「ダークサイド」、その狭間の経験が、人によって様々にあり、それらが編み込まれ織り成される複雑で分厚い固有の小さな「物語」は、全てのシスヘテロ男性一人ひとりにも、きっとある。

しかし、それはなかなか見出せない。既存の保守的で大きな「物語」に、ともすれば回収され、なかったことにされてしまう。

この社会で多く表現されている「物語」は、いずれも保守的で大きな「物語」に過ぎない。出回っていてありふれている、あんな大きな「物語」じゃダメだ。繊細で複雑で、それぞれに固有の小さな「物語」を喚起させるような、そんな複数的で統合困難な対象を求めていく力動が要る。

この西井さんの文章から、そして「非モテ研」の実践から学ぼうとするなら、おそらくまず、ミクロな場づくりがいる。それぞれの男性たちが、それぞれの小さいが分厚い固有の「物語」を、繊細に探り当てられるような、そんな場が。

 

そんなミクロな場を創り出していくことで、マクロな社会へも変革が齎される…となればハッピーだが、その道はきっと、遥かに遠い。

非モテ」というキーワードで生起した「ぼくらの非モテ研究会」、その実践はどのようにして、他の男性たちへと伝播するのだろうか。

そもそも「苦しみ」≒受苦を自覚さえしていない男性たちが、上記のような実践に加わることはあり得るのだろうか。

競争の渦中にある、支配層へと上り詰める闘いの途上にある、有名になって権力を得たい、一度手に入れた権力を保守したい、そんなシスヘテロ男性たち(≒ぼくら?)に、ぼくら自身は、いったい何をするのだろうか…。

 

 

5.おわりに→はじめに

…加速しないで考えたい。まずは、とにかく自分から。自分が暴力に巻き込まれそうになるところから、自身の心身と感性を助けるようにして、じっくりじっくり、うねうねと、スローダウンして考え、行動し、感じて、味わって暮らしたい。

まずは、ぼくらの苦しみに留まるところから始めたい。そしてゆっくり、ゆっくりと、ぼくらの苦しみを生み出した社会構造を変えていく契機を探してみたい。

この探索の試みは、もしかしたら、ぼくらの些細に思えるような苦しみを探り当て、迷いながら表現し続けようと挑戦することと、全く同じなんじゃないだろうか。そして気づいたら、そんな身近な「社会」を変える契機が、自身の内側のプロセスの中に転がっていた。そんなふうに、事後的に気づくようなものじゃないか。こんな後向きな想像力を、ぼくらは集団的に持つことができないだろうか。

 

メンズリブ思想・実践の永遠の、普遍的課題。

それはきっと、いつもぼくらから共に始め続けることだ。

 

焦らず、とぼとぼと、さまようように歩きたい。ぼくらから、ミクロからしか始まらない。表現していないことは、まだ沢山ある。

仲間と共にぼちぼち探ること。中動態的に日々を生きて、苦しく楽しく暮らすこと。そこから始めたい。切り口はいつも、そこにある気がする。

おしまい。