ごめんねギャバン

北海道のメンズリブ・グループ、『ごめんねギャバン』の公式ブログです~。

読書感想【メンズリブ東京に学ぼう!】:『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』より

ごめんねギャバン@札幌、呼びかけ人の、まくねがおです。

 

ごめんねギャバン@札幌は、メンズリブの集まりです。そもそも、メンズリブってなんじゃらほい?と思われる方もいると思います。

…僕も、よく知りません!笑 なので、一緒に学びましょう。

 

このブログで、メンズリブに関する文章を読んだ感想を、ぼちぼちアップしていこうと思います。僕が過去に呟いたツイートをコピペして、ちょっとまとめ直すだけのカンタン仕様です笑

文章を読みながらメンズリブのことについて学んでいく記事については、このブログのカテゴリー「読書感想」で続けていけたらと思いますので、ご興味ある方は、カテゴリーの「読書感想」をクリックして読んでいただけたらなと思います。

…飽き性のADHDなので、全然更新されないかもしれません笑が、気長にお待ちください。

 

以下、読書感想です。

 

  

1. はじめに

豊田正義(1997)『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』(飛鳥新社)がアマゾンから届いていたので、読み始めてみる。

著書の豊田さんはメンズリブ東京の代表だ。

 

本の最初は、20代の男性の語りから始まる。

明確な暴力はないが、明らかに依存症的な父が支配する家庭に育った男性のエピソード。

その男性は、父への反発から早くに家を出て、肉体労働をするも身体を壊す。その後、メンズリブ東京につながる。似たような境遇の男性たちと、はじめて共感的な会話ができる…。

…なるほど、良い場だ。シンプルにそう思う。

 

メンズリブ東京。ミニコミ誌を作ったり、毎週テーマ別の部会毎にワークショップを開いたりして活動していた。部会は以下の5つ。

「仕事」

「家族」

「パートナーシップ」

セクシャリティ

「オタク」

 

「活動の趣旨は、今のところ制度より意識の変革を目指している」とある(p.9)。約2年前に旗揚げした、とあるので、1995年開始ということだろう。

 

ワークショップの内容は、ごく単純なもの。男同士で車座になり、自分のことを語っていくだけ。テーマはあるが、基本的に「いいっぱなし、聞きっぱなし」のフリートーク

できるだけ本音を語ることだけは、一番の約束事にしている。

 

「この二年間、僕たちは、「男」としての生き難さを互いに出し合い、共通の問題構造を掘り起こし、それぞれの解放と自立のために支え合ってきた」(p.10) 

  

メンズリブ東京は20代、30代がメンバーの中心で、この本は著書の豊田さんを含めた、メンズリブ東京のメンバーたちの語り合いから見えてきた男性問題の報告書である、とのこと。

当時、メンズリブの集まりは岡山、大阪、奈良にもあり、メンズリブ・男性問題の捉え方や、活動方針や問題意識も各地で様々だった。

が、本書はあくまでメンズリブ東京から見えた男性問題を扱うようだ。

  

 

2.「父親≒男らしさ」から自分らしさへ

…「第1章 父親を消せ」読了。面白かったー…。

高度経済成長期の過酷な労働のために、支配的になったり、暴力的になったり、劣等感に塗れてしまったり…。

そんな父の元で育ち、植え付けられた「男らしさ」に反発しつつも、ついつい似たような「男らしさ」に飲み込まれてしまう息子たち。

著者の豊田さんも、過酷な労働現場の跡取りとして実家から期待され、そのプレッシャーもあってついには鬱病にまでなってしまった、そんな過去がある方だった。

他の方々のエピソードも非常に生々しく、息を飲んでしまうようなものばかり。この抑圧からの解放は容易ではない…と読みながら心底思った。

 

「男らしさから自分らしさへ」というテーゼについて、これまで僕は表面的に受け取って批判的に見てきたけど、この章のエピソードから湧き上がるように導き出されてくるのを読むと、切れば血が滴るような切実さを感じた。

このテーゼについて、もっと立ち止まって、じっくり考える必要があるなあ、と。


豊田さんは心理学・ACの本を読み、「まずは親から抑圧的な振る舞いを受けてきたことを自覚し、そこから始める」というプロセスが大事であることを知る(田房永子さんの毒親論を思い出す)。

ただ、自覚しても、そこからが険しい。育ちで身についた価値観は、なかなか引き剥がせない。

その困難な試みに挑むには、励まし合える仲間が必要であり…。

そして、「抑圧者としての父≒男らしさを消して、自分らしさを探そう」という共通の合言葉が必要だった。そうして生まれたテーゼが「男らしさから自分らしさへ」だったんだなあ。

 

 

3.母親・会社・女性との対峙

…ゆっくり読み進めている。

 

「第2章 母親という抑圧者」は、僕も母のことを突き放して捉えられない、という点で、掲載されたエピソードを共感的に読んだ。

 

「第3章 男が会社を棄てるとき」は、この本を読んでいる僕の現在は格差社会が進行しまくってて止まらない状況で、本で書かれている時代は格差社会以前であり、そんな時代の断絶は感じたけれど、しかし「このワーホリ社会は、完全に現在と地続きだ…」と戦慄しつつ読んだ。

 

「男自身の意識の中にも、自らの「弱さ」や「脆さ」を認めようとしない傾向が根強くあるからやっかいだ。(略)男というのは、一般に、「強さ」や「たくましさ」に対するこだわりを棄てられず、「弱さ」や「脆さ」を受け入れられない人種である。僕は、「男たちよ、弱くある勇気を持て!」といいたい」(p.175-176)

 

…「第4章 女と向き合うとき」読了。この章は特に良い。

シャイマンの事例は、元非モテの自分の過去ともやや重なり、懐かしかった。

そして、家事を通じて着実さを取り戻す過程が描写されたエピソードがあり、それも絶品。複雑な行きつ戻りつを経て解放に至る、個別的で具体的な「新たな男」の物語…。

  

 

4.メンズリブが生まれるとき

…豊田正義(1997)『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』読了。

最終章の「第5章 今、なぜメンズリブか」はとても面白く、また衝撃的で、モヤモヤと思うところが多かった。


第5章、まずは著書の豊田さんが、イエローキャブ問題に取り組むプロセスからメンズリブ東京を立ち上げていく経緯が具体的に記載されている。

イエローキャブ問題は、家父長制社会の中の競争で無意識下にストレスを抱え、歪んだ形で女性たちへ嫉妬してしまい、その苛立ちをぶつける、という男たちの弱さが問題の根幹にあって。

豊田さんは、自身がニューヨークに渡って解放されたのに、海外にいる日本人女性が酷く理不尽な形で蔑視されている現状に気づき、憤りを感じ、イエローキャブ問題を「見える化」する運動へと身を投じていく。フェミニズムにもそこで出会う。そして、男の問題に自分事として取り組み始める。

 

…豊田さんは、メンズリブを始めようとする男性たちにとって、尊敬すべき先輩だなあ、とつくづく思った。

「男に生まれてすみません」という気分を抱いたり、「僕も加害者の一人なんだ」と思って失語したり、メンズリブに触れた男の誰もが一度は通る困難さを、豊田さんもまさしく体感していて。

 

メンズリブ東京を立ち上げても、豊田さんは最初、どうしても自分のことを語れずにいたんだそうだ。

マスコミの取材を受けても、メンズリブ東京は「(自分のためじゃなく)他人のために始めたんだ」とどうしても取材では答えてしまい、そのことがとっても辛かった、とも本書には書かれていた。

 

そして、メンズリブ東京の仲間たちともやっと信頼関係ができてきて、豊田さんが自身の鬱病の経験を初めて仲間の男性たちに語った時、自然と涙があふれ、声が震えたのだという。稚拙な表現で良いから語ろうと思い、切実な経験を初めて言葉として外に出すことができた、そんな瞬間の描写があって。このシーンは、とっても感動的だった。

豊田さんが自身の一番辛かった経験を語った後、それほど劇的な変化があったわけではなかったという。

ただ、モヤモヤした抑圧感は薄らぎ、「ありのまま」を自分で引き受けようという覚悟がいつのまにかできていた、と書かれていた。周囲の男たちが、豊田さんの切実な経験をただ聴いた、そのことによって、豊田さんの中には緩やかな変化が生じたようだ。

 

…以上のような一連のプロセスは、まさしくメンズリブ誕生の貴重な記録だよなあ、と思った。これを1990年代半ばに行なっていたのだ。すごいなあ。

 

また、豊田さんは苦労しながら仲間を見つけていったんだなあ、と終章を読んで思った。

豊田さんは、メンズリブ東京の立ち上げメンバーとして、会の発起人の三人を集めた。

会を始める時も、本当に人が集まるかは不安だったし、始まってからも、すぐにうまくいったわけではなかった。

 

…そりゃ、そうだよな。こんなコンセプトの集まり、誰もやったことがなかったのだし。

自分のことを語るのが苦手な男性たちが、初めてのことに挑戦するのだから、簡単にいかないのは当然だ。

こんな難しさも、本書ではしっかりと描写されていた。

 

『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』、名著だ。読みながら、何度も何度も、僕の実存にも触れて、グッと来る瞬間があった。

豊田さんの個人史と、それぞれの男たちの語りが絡み合い、素晴らしい言葉が紡がれていた…。

  

 

5.甘えと癒し

…んだけど、この本はまだまだ、これで終わらないのだった。

「いやあ、ホントに良い本だなあ」と思ってしみじみ終盤まで読んでいったら、最後にまた、ガツンと頭を殴られたような展開になるのだ。

 

怒涛の説教モード。

 

「『癒し』と『甘え』を混同するな」

「自分はこのままでいいんだ、と考えたとしたら、それは『甘え』でしかない」

「コミュニケーション不全を何とか改善しようと努力している限りにおいて、メンズリブの仲間と場所は『癒し』になる」…。

「問題の解決に向かって」「発展性」「発想転換」…。

 

…最後は豊田さんが、「自分自身の『甘えたい』という欲求を戒めるため」に、こうした言葉も最後に置いた、と書かれていた…。

 

…ここが、僕の大きなモヤモヤポイントで。

僕の気持ちとして、半分は分かる。メンズリブをやろうとすると、「このままで良いのか」「こんなもので良いのか」という気持ちが、どうしても湧いてしまう。

しかしもう半分は、危機感を覚える。こうした、自分も他人も説教したくなるような心性を、僕らは僕らの手で解きほぐせないだろうか…

 

男たちがメンズリブの場に集うとき、それは「甘え」であっても良いんだ、とメンズリブは捉えるべきなのだろうか。

 

それとも、「癒し」と呼ばれるものを、もう少し解像度を上げて言葉にし。その概念から、僕らが自分も他人も説教したくなるような要素を、脱学習し続けるような、そんな取り組みが必要なのだろうか。

 

わからない。

 

そもそも、ブログで、ではなく、メンズリブの場で仲間たちと共に、身をもって模索すべき問いであるようにも感じた。

 

メンズリブにとって「甘え」とは何か。

メンズリブにとって「癒し」とは何か。

 

…そんな問いをまさに先行して生きた、という意味でも、メンズリブ東京は、豊田さんは、偉大な先達だ。そう思った。

本を読んで、過去のメンズリブを振り返り、その歴史を確認してみる作業は、とても面白い。引き続きまた、ゆるゆると取り組んでみたいなあ。

おしまい。